義太夫の床本(ゆかほん)は、太夫が語る詞章、つまり文章を記した台本です。三味線には、糸を押さえる位置であるツボを覚えるための「朱(しゅ)」という記譜があります。文章を読む資料と、三味線の手を思い出す資料では、受け持つ情報が違います。
ただし、詞章と三味線の譜が同じ本に書き込まれる場合もあります。本の名前や赤い文字があることだけで用途を決めず、「誰が、何を記した資料か」を見ることが出発点です。床本だけで三味線の全奏法が分かる、と考えないようにしましょう。
床本は太夫が物語を語るための台本
文楽の太夫は、人物のせりふに加え、情景や心情を説明する地の文も語ります。その詞章を記し、舞台で前に置くのが床本です。物語のどの場面を語っているかを支える資料なので、鑑賞するときには、登場人物と言葉の意味を知る手がかりになります。
日本芸術文化振興会の教材では、床本は個人用の台本で、自筆を原則としながら、師匠や先輩から譲り受けることもあると説明されています。太夫の本には、語りの目安となる旋律や強弱の記号も書き込まれます。同教材は、この書き込みも「朱」と呼んでいます。
そのため、「床本は文字だけ」「朱とあれば全部三味線の指示」と分けることはできません。文章のそばの印を調べるときは、まず太夫が使う本なのか、三味線弾きが記した本なのかを確かめます。
三味線の朱は習った手を思い出すための記譜
三味線弾きにも、心覚えとしてツボを記した本があります。日本芸術文化振興会は、その記譜法を「朱」と説明しています。義太夫の三味線のツボは、いろはの文字などで表されます。文化譜の数字を知っていても、その番号をそのまま当てはめる読み方にはなりません。
同教材には、丸本「菅原伝授手習鑑」や、稽古本「冥途の飛脚」の淡路町の段へ朱を書き込んだ資料の紹介があります。さらに、手書きのノートに記した「心中天網島」の天満屋紙屋内の段も紹介されています。文章を印刷した本への書き込みも、手書きのノートも、三味線の記録に使われる例です。
ここで残されるツボの情報だけでは、テンポ、強弱、細かな間合いまで十分に決まりません。教材の説明でも、そうしたニュアンスは演奏を耳で覚え、稽古で身につけるものとされています。譜がないのではなく、譜が受け持つことと、実演から学ぶことが分かれています。
文楽の三味線弾きは、舞台では暗譜して演奏します。本を見ていないから、稽古や準備でも記録を使わない、という意味ではありません。舞台上の見え方と、学ぶための資料は区別して捉えます。
同じ朱という名前でも誰のための印かを見る
太夫の床本に書かれた語りの目安と、三味線のツボを残す朱は、何を指示するかを確かめて読む必要があります。赤い文字の位置や見た目だけから、使う手や音の高さを決めることはできません。黒で書かれた印でも朱と呼ばれる例があるため、色だけの分類も十分ではありません。
資料を見つけたら、作品名、段名、使った人、書いた人、上演や稽古に関する説明を見ます。「義太夫の本」とだけ控えるより、「どの段を、どの太夫が使った床本か」「どの三味線弾きが残した朱か」と分けると、記号を調べる対象が具体的になります。
読めない印がある場合は、一文字だけを切り離さず、周囲の詞章や並びと一緒に位置を残します。「この色は何ですか」より、「この人の本の、この段の、この文句のそばにある印は何を示しますか」と問うほうが、資料に沿った説明を受けられます。
竹本の床本も目的と舞台を確かめる
歌舞伎で演奏される義太夫節に関わる資料には、「竹本床本」もあります。松竹大谷図書館のアーカイブ公開案内では、太夫の詞章と三味線方の譜が書かれた、実際の舞台用の床本が紹介されています。語り出しのきっかけや、演出に関する書き込みも含む資料です。
この例からも、一冊に書かれた内容を「台本か楽譜か」の二択にするだけでは足りないことが分かります。まず詞章を読み、次に語りの印、三味線の譜、舞台のきっかけに関する記載を区別して見ます。すべてが同じ程度に詳しく書かれている、と決めつける必要はありません。
なお、これは歌舞伎の竹本の資料です。文楽で使われる床本と比べるときは、どの舞台のために作られたかを残します。似た題名や同じ場面が出てきても、上演形態や担当が同じかを先に確認します。
鑑賞では詞章と音を別々に確かめてから合わせる
初めて義太夫を聴くなら、まず一つの場面を選び、詞章から誰が誰に話しているかを確認します。そのあと、同じ範囲の音を聴きます。文章の意味が分かることと、その場で三味線が何を表すかを聴くことを、いったん分ける方法です。
具体的な入口は、日本芸術文化振興会の「雰囲気を弾く」です。「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」から、人物のやり取りを示す詞章と、場面の解説、演奏映像が用意されています。緊張した場面の詞章では、登場人物の弾き分けを示す区切りが解説されています。
最初は、解説で示された区切りを一つ選び、前後で誰の心情が扱われるかを読みます。次に、その範囲の三味線へ注意を向けます。変化をうまく言葉にできない場合も、どの人物からどの人物へ移ったところかを控えられます。詞章だけを音符のように読み替えるのではなく、意味と音の関係を探す練習です。
演奏を学ぶときは語りと三味線の課題を分ける
語りを学びたいのか、三味線を弾きたいのかによって、用意する資料と最初の課題が変わります。義太夫協会の教室案内も、語りと三味線の実技を分けて案内しています。両方に興味がある場合も、同じ本を読めば同じ手順で習得できるとは考えません。
三味線の稽古では、指定された短い箇所について、何の音をどのように出すかを実演で確かめ、譜に残されたツボと結び付けます。語りと合わせる段階では、対応する詞章を見て、入る場所や待つ場所を確認します。朱の読解、手の動き、語りとの合わせ方を分けると、いま何を練習するかが分かります。
手元に床本や古い譜があれば、まず作品名と段名、資料の使用者が分かるかを見ます。詞章を読むための本なのか、演奏の記憶を助ける書き込みがあるのかを確かめ、自分の目的に合わせて使います。資料の役割を見分けることが、義太夫の言葉と三味線を結び付けて学ぶ土台になります。
参考資料
床本と太夫の朱は、日本芸術文化振興会の義太夫節の特徴 床本と舞台。三味線の記譜と資料例は、同会の演奏の基本 記譜法 朱を参照しました。
鑑賞の確認例は同会の雰囲気を弾く 寺子屋の段です。竹本の資料については、歌舞伎 on the webのアーカイブ公開案内と、松竹大谷図書館のデジタルアーカイブを参照しました。実技の学習区分は義太夫協会の教室・稽古場案内で確認できます。