江戸時代の三味線は、芝居小屋で踊りや芝居を支え、座敷で弾かれ、稽古事としても親しまれました。ただし、「庶民の楽器」という一言だけでは、演奏を仕事にする人と、習い事として学ぶ人の違いが見えません。誰が、どこで、何のために弾いたのかを分けると、暮らしとの関わりが具体的になります。
ここでは主に18〜19世紀の絵画、出版物、伝来した楽器を見ていきます。江戸時代の約260年間にも変化があり、都市の江戸と各地では事情が違います。資料に残る一つの場面を、そのまま当時の日本全体へ広げずに読むことが出発点です。
芝居小屋では舞台を支える音楽になる
歌舞伎の長唄は、舞踊の伴奏音楽として発達しました。踊る人の動きと、唄や三味線の進み方が一つの舞台で結びつきます。歌舞伎では、黒い簾の奥で演奏する黒御簾音楽にも長唄が使われます。観客から演奏者が見えるかどうかにかかわらず、音楽が芝居の場面や雰囲気を作る役目を持っています。
この音楽が響く場所は、興行を行う芝居小屋でした。江戸東京博物館の中村座正面の復元は、1805年11月の顔見世興行を想定した看板を掲げています。毎年11月の顔見世では、櫓の下に絵看板や文字看板、提灯を飾りました。演奏は、役者を見せ、見物客を集める興行の一部だったと捉えられます。
同館の芝居小屋の構造模型は、1809年の中村座の記録をもとにしています。正面の看板の想定年と、構造を調べた年は別です。現代の復元展示を見るときも、何年のどの記録を使ったのかを確かめると、江戸の芝居小屋がいつも同じ姿だったかのような思い込みを避けられます。
舞台を離れて音楽を聴く場も育つ
長唄は、文化・文政期の1804〜1830年ごろから、歌舞伎の上演とは別に、音楽として鑑賞するための曲も作られるようになりました。舞踊に合わせることと、唄と三味線の演奏を中心に聴くことでは、聴き手が注目するものも変わります。同じ長唄でも、芝居に付く音楽だけを想像すると、その広がりを見落としてしまいます。
三味線の歴史には、楽器や曲の変化に加えて、聴く場の変化があります。劇場で知った音楽と、舞台を離れて親しむ音楽をつなげて考えると、演奏家だけでなく、聴衆や稽古をする人も含めた広がりが見えてきます。長唄の曲の作りや編成は、音楽の種類を扱う記事で詳しく説明します。
座敷の絵では譜面を見ながら弾く姿が描かれる
東京国立博物館所蔵の宮川春水筆「美人弾三味線図」は、18世紀の作品です。作品解説には、開け放たれた座敷で、女性が譜面を追いながら三味線を弾く姿が記されています。三味線が置かれているだけでなく、演奏する動作と譜面が組み合わされている点に注目できます。
座敷は部屋の呼び名なので、座敷で弾く姿を見ただけで、宴席の仕事中なのか、稽古なのか、個人の楽しみなのかは決まりません。この作品の公開解説も、女性の名前や職業、演奏する曲までは特定していません。描かれた行為と、その人の経歴を想像することは分けておく必要があります。
足立区立郷土博物館には、渓斎英泉の「当世好物八契(三味線)」も収蔵されています。文政期、1818〜1830年の美人画として登録された作品です。三味線が演奏の道具であるとともに、人物を描く絵の題材にもなったことが分かります。ただし、絵の点数から所有者の割合を数えることはできません。
稽古は日々の予定や将来の奉公とも結びつく
江戸後期の稽古の忙しさは、文学にも描かれています。国立国会図書館の資料解説が紹介する『浮世風呂』には、手習い、三味線、踊り、琴の稽古と、家でのおさらいを行き来する少女の言葉が登場します。読み書きだけでなく、複数の芸事を習う生活が、当時の読者に伝わる題材になっていたのです。
『新板娘諸藝雙六』では、出発点が「弟子入」、到着点が「御奉公」になっています。途中には三味線、縫物、踊り、茶の湯などが並びます。上手になる過程を遊びにしたこの双六は、芸事を身に付けることと、奉公に出ることを結びつけています。三味線の稽古には、趣味という言葉だけでは説明できない期待もかけられていました。
同じ資料解説は、江戸後期の『守貞謾稿』に、女子の芸事、武家への奉公、縁談を結びつけた記述があることを示しています。これは書き手が捉えた都市の習慣や価値観を知る手がかりです。すべての女性が同じ教育を受けた、芸がなければ誰も結婚できなかった、という全国共通の決まりとしては読めません。
遊里との関係は楽器に残る伝承から読む
三味線は遊里の文化とも関わりました。早稲田大学演劇博物館の「伝 玉菊使用三味線」は、江戸新吉原の遊女・玉菊が用いたと伝わる楽器です。胴には作者を示す「近江」の焼印、中子には「玉菊さま」の墨書があります。楽器の中に残された文字も、伝来を調べる材料になります。
資料名の「伝」は、使用したと伝えられていることを示します。銘が残るという事実と、その人がいつ、どの場で弾いたかという事実は別です。華やかな評判だけで人物を説明せず、何が楽器から確かめられ、何が語り伝えなのかを分けると、女性の生涯を一つの美談にまとめずに読むことができます。
和歌山県立博物館の太地角右衛門家伝来の三味線にも、似た注意点があります。太地鯨組の宰領を務めた家に伝わり、箱には「夕霧」の文字が残ります。大坂・新町の夕霧太夫から贈られたという話は伝承です。一方、現在は胴板が分離し、皮や糸などを失っているという状態は、収蔵品の説明で具体的に確認できます。
装飾された楽器と広く使われた楽器を分ける
サントリー美術館には、19世紀の「桜蒔絵三味線・蔓草蒔絵胡弓」があります。三味線には桜の蒔絵と桜形の銀製金具が施され、胡弓の葛の意匠と組み合わされています。楽器を音の道具として使うだけでなく、見た目を整え、取り合わせを楽しむ文化も伝わります。
こうした装飾品や、著名な人物に結びつく伝来品は、来歴を知る面白さがあります。ただし、残った一組を、当時の人々が普通に使った楽器の代表とすることはできません。華やかな品が博物館にあることと、各家庭がどれほどの楽器を持てたかは、異なる問いです。
三味線のある暮らしを一つの姿にまとめない
芝居小屋では上演を支え、座敷の絵では演奏する身ぶりが描かれ、双六では稽古と奉公が結びついていました。伝来楽器からは、所有した人や贈答の記憶、装飾への関心もたどれます。三味線と暮らしの関わりは、こうした違う場面を合わせて考えると分かりやすくなります。
資料を見るときは、年代と地域に加え、絵なのか、生活を記した文章なのか、残された楽器なのかを確かめてみてください。同じ三味線でも、興行、稽古、仕事、楽しみのどこに置かれているかで、見えてくる人の暮らしが変わります。